競走資料室


【誤植について】

本項は、主な資料としまして『日本競馬史 第三巻』(以下「日本競馬史」)を用いておりますが、東京競馬の結果につきましては『東京競馬會及東京競馬倶樂部史 第三巻』(以下「東京競馬史」)を基にしています。『日本競馬史』は誤植が散見されますが、誤植かどうか判別できないものも含まれるため、原則としてそのまま引用しました。

 

【馬名の撥音・拗音等の表記について】

「ツ」と「ッ」、「ヨ」と「ョ」について、当時の資料では区別されていないため、現在「ハッピーチャペル」として知られる馬も「ハツピーチヤペル」との表記になります。これはデータベースとして検索等に利用する場合に極めて具合が悪いのですが、同名異馬の判別が困難なため、ほぼそのまま表記しております。例外的に、複数の資料を基に同名同馬であると確認できた場合に限り、現代風に置き換えています。「ヰ」「ヱ」「ヲ」などについても同様です。

またごく稀に「ラ・カンテニヤ」等、「・」がつく馬名があり、当時の資料ではこれを「ラ、カンテニヤ」などと表記してあります。これは「、」を「・」に読み替えております。

漢字馬名につきましては旧字体で記載されているものについてはできるだけ忠実に引用しましたが、対応フォントがない場合もあり、適宜、略字体(新字体)に読み替えております。

 

【勝ちタイムについて】

また、各競走の勝ちタイム中一秒以下の部分については、昭和2年ごろから100分の1秒表記から5分の1秒表記に切り替わっていますが、『日本競馬史』ではこれを正確に反映しておりません。

(例)  『日本競馬史』の記載2.02.3   ⇒   『東京競馬史』に基づく実際のタイム 2.02.3/5 

東京競馬の結果につきましては『東京競馬史』に基づき適宜修正していますが、その他の競馬場の結果につきましては今のところ他に一時的な資料がないため、『日本競馬史』のタイムをそのまま載せております。ご了承ください。

 

【騎手名について】

資料により、また時期により、騎手名の表記はまちまちです。例えば、「佐藤」「佐藤嘉」「嘉七」など、同一騎手と思われますが、確認しておりません。そのまま記載しております。


帝室御賞典(昭和12年以前) 勝馬一覧

初代英国大使にして日本レースクラブ(根岸)会頭のクロウド・マクスウェル・マクドナルド卿の尽力により、明治38年春季、日本レースクラブに対して、英国大使館を通して宮内庁より『尊重の重宝』、すなわち御賞典が御下賜され、「the Emperor’s Cup」競走が開催された。翌年、東京競馬会にも御賞典が下賜され、以降「帝室御賞典」は各地の競馬倶楽部に定着することとなる。最盛期で年10レースに御賞典が御下賜された。

帝室御賞典競走はその名のとおり、優勝馬とその名誉ある馬主に対して、宮中より御賞典が御下賜された。御賞典は時によりさまざまであったが、銀製の花盛器や盃、鉢などであった。「御賞典拝受者は之を家宝として悠久子孫に敬称せしむべきは勿論、苟も転売入質等の不敬に亘るが如き行為は絶対ある間敷き筋合いのもの有之」(天皇賞競走史話より)であり、2着以下には賞金が付与されたが、優勝馬には賞金はなく、ただ名誉と貴重な御下賜品を争うものであった。(副賞として賞金が付与されたり、附加賞金があった場合も有る。後に優勝馬にも賞金が付与されるようになった。)

昭和11年、競馬法が改正され、各地の競馬倶楽部を統一する形で日本競馬会が設立される。これにより昭和12年秋から帝室御賞典は年2回となり、春は阪神、秋は東京で施行されることとなった。これが、現在の天皇賞の直接の前身である。但し、競走条件は昭和12年以前とは大きく異なり、実質的には、むしろ東京・阪神で施行されていた連合二哩競走が現在の天皇賞に近い。

なお、宮中より御賞典を拝領するという競走は、横浜では明治13年にまで遡ることができ、単に「帝室御賞典」という競走名ではなかったというだけで、レースの発祥はこの時代の「Mikado’s Vase」まで辿ることができる。

 

帝室御賞典のルーツ(準備中)ここでは、根岸で「帝室御賞典」競走成立するより前に、皇室・宮中より御下賜品のあったレースとその勝馬をご覧いただきます。

横浜(根岸)/帝室御賞典(明治38年〜昭和12年)

東京(池上・目黒・府中)/帝室御賞典(明治39年〜昭和12年)

阪神/帝室御賞典(明治43年〜昭和12年)

札幌/帝室御賞典(大正11年〜昭和12年)

函館/帝室御賞典(大正11年〜昭和12年)

福島/帝室御賞典(大正11年〜昭和12年)

小倉/帝室御賞典(大正12年〜昭和12年)

 


優勝内国産馬連合競走(連合二哩) 勝馬一覧

明治41年(1908)に馬券の発売が禁止されて以来、各地の競馬倶楽部(当時の競馬運営団体)は賞金の確保に苦労し、競馬界は低迷していた。馬券のない競馬に客は集まらず、客の集まらない競馬場は賞金が出せず、賞金が出ない競馬に馬は集まらない。この時期、日本全体の競馬競走の一レースの平均出走頭数は2頭を下回るという有様だった。競馬の不振は馬産界にも深刻な影響を落とし、サラブレッドの価格は低迷した。2頭以下の競走、すなわち単走では馬匹の選別改良など望むべくもなく、生産界の不況が続けば馬匹改良の目的が喪失されるとして、明治44年(1911)秋、馬政局の命令により目黒に特殊競走「優勝内国産馬聯合競走」が創設された。

一着賞金3,000円、二着1,500円、三着500円という賞金は当時最高額で、当時の競走馬の価格が普通の抽籤馬で350円から400円、特別な優良馬で2,000円程度であったので、この賞金は全くの破格といえる高額であった。生産界はにわかに活気付き、北海道では780,000円で取引される馬が出るほどであったという。

出走馬は、前季の出走新馬で、なおかつその出走した季の優勝戦に勝った馬に限られたから、各馬にとって出走のチャンスは一度しかない。秋の目黒には、各地の優勝馬が集まり、まさに全日本選手権競走ともいうべき日本一の大賞となった。それゆえに、連合競走に出走し入着を果たした馬は全国に名声を轟かしたという。

大正12年(1923)に競馬法が制定され馬券の発売が復活するまで、競馬の賞金は政府の補助金に頼っていたから、連合競走は唯一の高額賞金が出る特殊競走で、国内の目玉レースとなった。帝室御賞典が皇室からの御下賜品を授与される名誉を争うものであるのに対し、連合競走はその比類ない高額賞金を争う大レースだったのである。帝室御賞典の2着の賞金が250円の時代(1着は御下賜品。賞金は無し)に、連合競走は2着馬にも1000円、3着でも500円の賞金を出した。

創立当初は秋の東京でのみで開催され、大正7年に春秋の2回開催となり、大正13年から関西は阪神競馬場でも「各内国産馬連合競走」として開催されることになった。これに伴い出走条件は各地の前季の競馬倶楽部の優勝戦において12着に入った馬というように変遷し、東西それぞれのチャンピオン決定戦となる。

連合競走は農林省賞典競走と名を変えながら、昭和12年まで続き、昭和13年にこれを引き継ぐ形で2マイルの帝室御賞典となった。旧帝室御賞典が1哩から11分(1800m)前後の中距離で行われていたことを考えれば、3200mの長距離レースで、年間に東西で各一回という現在の天皇賞の形式は、旧帝室御賞典というよりは連合競走のスタイルを受け継いでいるといえる。はじめから内国産馬に限られていた点も現在の天皇賞の形式に近い。この意味で、連合競走は現在の天皇賞の真のルーツともいえる大レースなのである。

後に京都に牝馬限定の連合競走も創設された。

また昭和3年の大禮記念開催に際しては京都でも連合競走が一回限りで開催されている。

なお、根岸(横浜)では、景品つきの入場券や投票権を発行してある程度の成功を収めてはいたが、呼物競走として昭和3年より3200mの「横浜特別競走」が施行されて人気を博するが、これは別項で扱うこととした。

 

東京 優勝内国産馬連合競走/各内国産馬連合競走/農林省賞典競走

(明治44年〜昭和12年)

阪神 各内国産馬連合競走/各内国産古馬競走/農林省賞典競走 

(大正13年〜昭和12年)

京都 各内国産古馬連合競走 (大禮記念開催)

(昭和3年 京都大禮記念)

京都 各内国産牝馬連合競走/牝馬連合競走/農林省賞典牝馬競走/四・五歳牝馬特別競走

(昭和3年〜昭和12年)

 


横浜特別競走 勝馬一覧  

 

日本で最も伝統と権威のある競馬場であった横浜根岸の日本レース倶楽部も、馬券禁止のあおりを受けて低迷した。根岸では、景品式の馬券を発見するなどして入場者を集めていたが、馬券の発売が再開されると徐々に往年の活気を取り戻し、昭和に入るとふたたび黄金時代を迎える。

その昭和3年に、根岸名物として創設されたのが横浜特別競走で、東西の連合二哩と同じ3200米の距離で施行された。

太平洋戦争がはじまると、軍港を一望する根岸競馬場は海軍省に接収され閉鎖された。昭和18年に東京と中山で代替開催を行うと、その長い歴史に幕を閉じた。

 

根岸 横浜特別競走/横浜記念競走

(昭和3年〜昭和18年)

 


各内国抽籤濠州産馬混合競走(濠抽混合) 勝馬一覧

 

大正12年に待望の馬券の発売が再開されると、競馬界はにわかに活況を取り戻し、各地で盛んに競馬が行われた。馬券禁止時代にすっかり冷え切ってしまった競馬倶楽部は急激に膨れ上がる競走馬の需要に、質・量ともに応えることができなかった。また、競馬の本来の目的である馬匹改良・軍馬育成のため優秀な牝馬が求められた。これにより、大正12年より濠州産牝馬の輸入が再開された。この時期に濠州より輸入された牝馬には後に一大ファミリーを築くバウアーストックも含まれている。こうした輸入競走馬は各地の競馬倶楽部によって購買されて抽籤馬として登場した。

この輸入再開に伴って、大正14年、目黒に外国産馬(濠州産馬)にも門戸を開いた2哩1分の特別競走として濠抽混合競走(各内国抽籤濠州産馬混合競走)が創設された。

ところが、国内の馬産家はこの輸入再開に異議を唱えた。漸く競走馬の需要が回復したところへ、輸入競走馬が抽籤馬として購入されると、競馬倶楽部による国内産馬の購買が以前よりも減少し、ひいては国内産馬の馬匹改良の妨げとなる。これを受けて大正15年、当時の畜産局長は濠州産馬の購入を本年限りとする旨の命を各競馬倶楽部に通知し、外国産馬の輸入は途絶えることになる。これにより、外国産新馬の登録がなくなった濠抽混合競走は「各内外国産古馬競走」と名を変え、3年後の昭和4年秋には外国産馬の出走がなくなり、「各内国産古馬競走」と改称し、連合二哩、帝室御賞典に次ぐ古馬の呼物競走として定着した。

後に東京競馬場が目黒から府中に移転すると、本競走は「目黒記念」と改称され、ハンデキャップ競走となり、現在まで続く。

 

東京(目黒・府中) 各内国抽籤濠州産馬混合競走/各内外国産古馬競走/各内国産古馬競走/目黒記念競走

(大正14年〜昭和12年)

 

京都 各内外国産古馬競走(大禮記念開催)

(昭和3年 京都大禮記念)

 

 


そのほか、各特別競走勝馬一覧も順次掲載していく予定です。


東京競馬 各種優勝戦勝馬一覧(明治44年〜昭和12年)

 

 初期の競馬倶楽部の競馬開催は春秋それぞれ3〜4日間で、2日目に特殊競走の帝室御賞典を行い、最終日にそれまでの勝馬を集めた優勝戦を施行する慣わしであった。後にさまざまな特別競走が整備されていくが、この基本番組は維持された。帝室御賞典は、皇室より下賜される御賞典を争い原則として勝馬には賞金は出なかったし、高額賞金競走として明治44年に創設された連合二哩は各馬一度しか出走チャンスが無かったから、古馬にとって一着約1,000円の優勝戦は最大の目標レースであった。

 競馬法が施行されて馬券が合法化された大正12年に、初日に特殊ハンデキャップ競走が創設され、大正14年には濠抽混合が創設されて古馬の出走レースが増えたが、優勝戦の賞金は特別競走の濠抽混合と同じ高い水準に保たれた。昭和7年に一着10,000円の東京優駿大競走が開始されて高額賞金競走としての順位は少し落ちたが、この競走も4歳馬限定だったから、古馬にとっての競走としては優勝戦の勝ちは揺らぐものではない。

 現在では、ほかの各種の特別競走は現在の「重賞競走」のルーツとして歴代勝馬の名が挙げられているが、この「優勝戦」はそれらの競走と比較しても同格以上の重要競走であった。

 

 

東京(池上・目黒・府中) 内国産古馬優勝戦

(明治44年〜昭和12年)

 

 


東京競馬 特ハン戦勝馬一覧(大正2、大正12年〜昭和12年)

 

 大正2年、東京競馬倶楽部開催二日目のメインイベントに「特殊ハンデキャップ競走」が創設された。

 これは事前に10円の登録料を支払って登録を行い、この登録馬に対して発表されたハンデキャップに同意して出場するものは更に10円を支払って第二次登録、ついで最終登録に際し更に5円を支払うというもので、競走が成立すると登録料から5円を差し引いた残りの金員を1着70%、2着20%、3着10%の割合で付加賞金として還付された。いわば「ステークス・レース」的な性格のレースであった。それまでの国内の競走はの賞金はあくまでも主催者側の用意するものであったので、こうした馬主が賞金を供出する形での競走は画期的であった。

 創設年の大正2年には内国・濠州産馬混合競走として行われ、その後しばらく休止されたが、大正12年の競馬法施行の際に復活し、初日のメイン競走として定着した。

 特ハンと称された特殊ハンデキャップ競走は、最終日の優勝戦と並んで一流古馬が目標とする高額賞金レースで、与えられるハンデにより白熱した競馬が繰り広げられることで大いに人気を博した。後に高額賞金の特別競走が充実すると相対的な価値は下がったものの、一流馬が登場する初日のメイン・イベントとしての名誉は持続した。

 

 

東京(目黒・府中) 内国産古馬 特ハン

(大正2、大正12年〜昭和12年)

 

 

 

 

 

 

 


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