トウルヌソル* Tournesol 牡 1922 鹿毛 GB
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《血統表》
ゲインズバラ Gainsborough 栗毛 1915 GB |
バヤルド Bayardo 鹿 1906 GB |
ベイロナルド Bay Ronald |
Hampton
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Black Duchess |
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ガリシア Galicia |
Galopin |
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Isoletta |
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ローズドロップ Rosedrop 栗 1907 GB |
セイントフラスキン St.Frusquin |
St.Simon |
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Isabel |
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ロザリン Rosaline |
Trenton |
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Rosalys |
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ソリスト Soliste 黒鹿 1910 FRA |
プリンスウィリアム Prince William 黒鹿 1903 GB |
ビルオブポートランド Bill of Portland |
St.Simon
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Electriclight |
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ラヴィエルジュ La Vierge |
Hampton
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Elizabeth |
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シーズ Sees 鹿 1899 GB |
チェスターフィールド Chesterfield |
Wisdom |
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Bramble |
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ラグール La Goulue |
Prism |
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Rosary |
F.No[27-a]
《競走成績》
2〜5歳時24戦6勝、2着5回、3着3回(収得賞金6,625£)
1924年(2歳)0勝
1925年(3歳)3勝、2着4回、3着1回
1926年(4歳)1勝、2着1回、3着1回
1927年(5歳)2勝
1着
プリンセスオブウェールズS、ダッチェスオブヨークP、ゼトランドP 、クイーンズプライズ、グレートノーザンH
2着
ハードウィックS 、ノースアンバランドP
3着
アスコットS
4着
アスコット金杯
《代表産駒》
競走名 |
血統名(繁殖名/種牡馬名) |
性 |
主な勝鞍 |
クモハタ |
- |
牡 |
顕彰馬 日本ダービー、東京5歳特別 日CS6回。 |
クリフジ |
年藤 |
牝 |
顕彰馬 日本ダービー、京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)、阪神優駿牝馬(オークス)、横浜記念 |
ワカタカ |
- |
牡 |
日本ダービー、帝室御賞典、農林省賞典競走(連合二哩)、横浜特別 |
イエリュウ |
- |
牡 |
日本ダービー |
トクマサ |
- |
牡 |
日本ダービー、帝室御賞典、目黒記念(春)、中山記念(秋) |
ヒサトモ |
久友 |
牝 |
日本ダービー、帝室御賞典 |
テツバンザイ |
- |
牝 |
オークス、横浜記念(横浜連合二哩) |
ソールレディ |
- |
牝 |
桜花賞 |
クリヤマト |
- |
牡 |
皐月賞 |
ハッピーマイト |
- |
牡 |
天皇賞、優勝内国産馬連合競走 |
スモールジャック |
- |
牡 |
帝室御賞典、農林省賞典競走(阪神連合二哩) |
イワヰカブト |
- |
牡 |
帝室御賞典、横浜特別 |
ハッピーランド |
- |
牝 |
農林省賞典競走(連合二哩)、横浜特別 |
ワカミチ |
- |
牡 |
農林省賞典競走(連合二哩) |
ピュアーソール |
- |
牡 |
農林省賞典競走(連合二哩) |
ヒサニシキ |
- |
牝 |
農林省賞典牝馬競走(京都連合二哩牝馬) |
クヰンアスパー |
- |
牡 |
農林省賞典競走(阪神連合二哩) |
スパージョン |
- |
牡 |
農林省賞典競走(阪神連合二哩) |
ジャンダークトマス |
- |
牝 |
農林省賞典牝馬競走(京都連合二哩牝馬) |
アサハギ |
- |
牝 |
農林省賞典牝馬競走(京都連合二哩牝馬) |
ツキヤス |
- |
牡 |
横浜特別、目黒記念(秋) |
アヅマダケ |
- |
牡 |
横浜特別 |
トキノチカラ |
- |
牝 |
帝室御賞典、阪神記念 |
アカイシダケ |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
キンチャン |
- |
牝 |
帝室御賞典 |
キョクジツ |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
ダイナモ |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
アサヤス |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
イサオ |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
オーシス |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
リョウゴク |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
ツキタカ |
- |
牡 |
帝室御賞典 |
アトランタ |
- |
牝 |
帝室御賞典 |
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-以下準備中 |
- |
- |
《繁殖成績》
昭和2年(1927)輸入
昭和3年(1928)供用開始(千葉県・下総御料牧場)
昭和19年(1944)廃用
昭和21年(1946)8月死亡
《解説》
トウルヌソル(Tournesol)は、昭和初期(1930年代から1940年代)の日本を代表するサラブレッド種牡馬で、日本史上最多(2006年12月現在)の6頭の日本ダービー優勝馬の父である。※1 1935年から1939年にかけて5年連続の日本の種牡馬チャンピオンとなり、直系子孫は日本の内国産馬としては最も成功を収め、クモハタが日本の種牡馬チャンピオンになり、4代連続の重賞勝馬が出た。競走馬時代はイギリスでプリンセスオブウェールズステークスなど6勝をあげた。
祖父バヤルドBayardoはゲイクルセイダーGay CrusaderとゲインズバラGainsboroughの2頭のイギリスの戦時三冠馬の父で、1917年と1918年にイギリスの種牡馬チャンピオンになった。このうちゲインズバラは1917年にイギリスで三冠を達成して1920年に種牡馬になると、1925年から1927年までイギリスの種牡馬ランキング4位になった。ゲインズバラの馬名の由来であるトマス・ゲインズバラは18世紀のイギリスの画家で、貴族趣味の華美なロココ風美術に反対してイギリスの長閑な田園を描いた風景画家である。ただし彼は生活のために多くの肖像画を描き、むしろ肖像画家として大変な人気がある。
種馬となったゲインズバラの最初の一流馬は2世代目の1922年生まれの名馬ソラリオSolarioである。ソラリオはセントレジャー、アスコット金杯、コロネーションカップと、当時の最高クラスの大レースを完全制覇し、大変な期待を集めて種牡馬となった。ソラリオは当時最高額の500ギニー(当時約5,250円)の種付料を取ったが、3年先まで種付は予約で一杯だった。当時の歴代のチャンピオンサイヤーであるハリーオン Hurry On、スインフォードSwynford、レンバーグ Lemberg、ファラリス Phalaris、ブッシャン Buchanや、ゲインズバラ、ゲイクルセイダー等の錚々たる種牡馬ですら400ギニーどまりだったから、如何にソラリオが期待されていたかがわかる。
前世紀の終わりから、イギリスの種牡馬チャンピオンの座は、ガロピンからセイントサイモンに至る系統、ハンプトンからハイペリオンに至る系統、サイリーンからファラリスに至る系統の3大勢力が拮抗して争っていた。第二次世界大戦期にイギリスのゲインズバラ・ハイペリオン父子が出て、この三大勢力鼎立の時代に終止符を打ったかのようにみえたが、長く苦しい大戦が終わると、敗戦国のイタリアからネアルコが出現し、1970年代が終わる頃には最後まで抵抗していたハンプトンの末裔を駆逐した。
【イギリスのチャンピオンサイヤーの系統別の数】
年度 |
Voltigeurから Galopinを経て St.Simonに至る系統 |
Stockwellから Doncasterを経て Cylleneに至る系統 |
Newminsterから Hamptonを経て Gainsboroughに至る系統 |
1875年 〜1974年 |
29回 |
32回 |
26回 |
1975年 〜2004年 |
0回 |
30回 |
0回 |
ソラリオと同期のトウルヌソルは、1926年にプリンセスオブウェールズステークスなどに勝ち、父の種牡馬首位獲得に貢献した。翌年5歳になって2連勝、徐々に力をつけてさあいよいよ大レースのアスコット金杯に挑戦となったが、レース中に蹉跌して4着、趾骨捻挫により引退した。勝鞍はすべて10ハロン以上である。
このころ、宮内省より種牡馬選定の依頼を受けた獣医学博士の丹下謙吉は、イギリスに赴いていた。当時のイギリスで一番人気のあった系統はザテトラーク The Tetrarchとハリーオン Hurry Onだった。丹下博士は、2歳戦でステークスを勝つなど大活躍したハリーオンの4歳牡馬を買わないかとイギリス貴族から持ちかけられた。既に3万円も稼いだ一流競走馬だったが、この馬の将来性に疑問を感じた丹下博士はこれを断った。この馬はその後すぐに買い手がついたが、それでも丹下博士はこの馬の馬体が気に入らなかった。
博士は、スピードはあるが長距離での実績のないザテトラークの系統も嫌い、たくさんの牧場を巡った末に、五尺三寸の6歳の鹿毛を見初めた。6勝して怪我で競走生活を終え、賞金も6万円ほどしか稼いでいない中級馬であったが、勝鞍が12ハロン(約2,400メートル)から2マイル(約3,200メートル)に集中していて、丹下博士の見た馬のなかでは一番馬体が優れているようであった。丹下博士は、もしこの馬の産駒の成績が振るわなければ職を辞す覚悟で、トウルヌソルの購入を決断した。購入価格は約8100ポンド(当時の日本円で約98,000円)、輸入に要した経費も含めると9450ポンド、約11万4500円という大金である。博士は帰途、次のような詩を詠んだ。『七度目の 極楽旅行 おわりけり つぎは地獄の 六道の辻』。このときはまだハイペリオンも登場していないし、ゲインズバラがチャンピオンサイヤーになる前のことで、丹下博士には先見の明があったというほかない。体高161センチと均整の取れた馬体のトウルヌソルは、千葉県の宮内省下総御料牧場で種牡馬となった。種付料は500円であった。
その後イギリス本国では1930年代にハイペリオンHyperionが出て、ゲインズバラは1932年と1933年にイギリスの種牡馬チャンピオンになった。ハイペリオンは1940年代に5回チャンピオンサイヤーになってゲインズバラの系統の歴史的な成功を決定したが、同じころ、地球の裏側の日本では既にトウルヌソルが5回チャンピオンサイアーとなっていた。
【ベイロナルドからゲインズバラをトウルヌソルに至る主要父系概略】
Bay
Ronald
|Macdonald(ロワイヤルオーク賞)
|As d'Atout(パリ大賞典)
||Mckinley(仏2000ギニー)
|Dark Ronald ⇒フランスのサンインロウSon-in-Lawをはじめ、ドイツ、ソビエト、南米、豪州などの優れた父系の祖
||Son-in-Law(1924・1930英チャンピオンサイアー)
|Bayardo(英セントレジャー、1917・1918英チャンピオンサイアー)
||Bayuda(f、英オークス)
||Gay Crusader(英三冠),
|||Caissot(ハンガリーチャンピオンサイアー)
|||Legatee
||||Museum(愛三冠)
|||Gay Lothario
||||Lucrative(豪VRCダービー)
||Gainsborough(英三冠、1932〜1933英チャンピオンサイアー)
|||トウルヌソル*
|||Solario(英セントレジャー、1937年英チャンピオンサイアー)
||||Exhibitionist(f、英1000ギニー、英オークス)
||||Raeburn(愛ダービー)
||||Mid-Day Sun(英ダービー)
||||Straight Deal(英ダービー)
||||Dastur(愛ダービー)
|||||Dhoti
||||||Royal Gem(コーフィールドC)
|||Artist's Proof
||||Agregat ソ連の大競走馬
||||Fine Art
|||Hyperion(英ダービー、1940〜1942・45・46・54英チャンピオンサイアー)
|||Goyescas (ミドルパークS)
|||Singapore(英セントレジャー)
||||Chulmleigh(英セントレジャー)
||||Arco(伊ダービー)
|||Bobsleigh
||||Slide On(愛ダービー)
|||Orwell(英2000ギニー)
||||Rosewell(愛ダービー)
|||レイモンド*
トウルヌソルの名前は「向日葵」を意味するフランス語である。母のソリストSolisteはソロダンサー、ソロプレイヤーを意味する音楽用語であるが、solという語幹はロマンス語では「太陽」を意味し、トウルヌソルの命名はここからの連想と考えられる。なお、フランス語における「太陽」はsoleil(ソレイユ)であり、これはsolではなくsoliculumからの派生である。ちなみにソラリオ Solarioのsolの場合は、母のサンウォーシップ Sun Worshipからきていて、太陽神の名を持つハイペリオン Hyperionも大種牡馬となり、ゲインズバラの仔は太陽に因む名をつけられると活躍するようである。また現在の日本では、トウルヌソルといえばファイナルファンタジーXIIでの最強両手剣としてのほうが圧倒的に著名であることを付記しておく。なお、ゲインズバラはフランス風の発音ではゲインスブール(ゲンズブール)となり、ファイナルファンタジーVIIのヒロイン、エアリスはエアリス・ゲインズブール(Aerith Gainsborough)という名である(映画監督・俳優で有名なセルジュ・ゲンスブールはGainsbourg)。
血統は当時の二大主流のセントサイモンSt.Simon(4×4)、ハンプトンHampton(4×4)の近親交配をもち、セイントサイモンの父ガロピンGalopinに目を向けると4×5×5の近親交配となる。19世紀の末の英国生産界ではガロピン・セイントサイモンとハンプトンが首位種牡馬の座にあったので、これらの近親交配があることは自然なことであり、この時代としては特別なこととはいえない。一方で、その前の時代に1880年から1886年まで種牡馬チャンピオンだったハーミットHermitの血を持っていないのが特徴ということになる。半妹のラソローニュLa Sologne(父プリンスチメイPrince Chimay)はナッソーステークスの勝馬。祖母シーSeesの半妹マテルMaterはヴェルメイユ賞の勝馬。
最初のうち、トウルヌソルの仔は、チャペルブラムプトンの仔には一枚劣ると考えられていた。というのも、チャペルブラムプトンの活躍馬の半弟がデビューすると、兄姉ほどの活躍をしなかったからである。しかしトウルヌソルにとって幸運なことに、最初の世代が競走年齢に達すると、昭和7年(1932年)に東京競馬場に新しい大競走が創始された。東京優駿大競走、いわゆる日本ダービーである。往年の名馬ミラを祖とするワカタカは不良馬場を制して初代日本ダービー馬となり、帝室御賞典、連合二哩、横浜特別も優勝して当時の大競走を制覇した。これ以降もハッピーランド、ワカミチなどが活躍し、昭和11年(1936年)トクマサ、昭和12年(1937年)に牝馬のヒサトモが日本ダービーを連覇した。一年あいて昭和14年(1939年)クモハタ、昭和15年(1940年)イエリュウも連覇。昭和18年(1943年)にはトウルヌソルの最高傑作、牝馬のクリフジが登場して変則三冠を達成した。日本ダービーを優勝した牝馬は、ヒサトモ、クリフジの2頭のほかにはいない。トウルヌソルは名馬ソラリオの同期であり、種牡馬としてはソラリオ以上の成績を収めた。後の時代にはハイペリオンの同期のレイモンドが日本に輸入されたがハイペリオンには遠く及ばない成績で終わり、期待を大きく裏切った。それでもレイモンドはホシホマレ、トラックオーの2頭のクラシックウィナーを送り出した。
小岩井農場のシアンモアとトウルヌソルは常に種牡馬成績で争って、二大種牡馬と言われ、下総御料牧場の黄金時代を築いた。日本ダービーが創設されて以来10年間で、トウルヌソルとシアンモアの産駒が優勝を逃したのは僅かに2回だった。トウルヌソルの仔は特に頑強で馬場の状態にかかわりなく力を発揮し、特に道悪になると強さが際立った。ワカタカもクモハタも道悪で日本ダービーを優勝している。昭和10年(1935年)から5年連続で日本のチャンピオンサイヤーとなった。産駒総数374頭。産駒の獲得賞金の総額は150万円を超える。やがてトウルヌソルは後輩のダイオライトに下総御料牧場のエースの座を譲ると、戦況が厳しさを増す昭和19年(1944年)に引退した。ライバルのシアンモアもプリメロに小岩井牧場の首領の座を明け渡して引退した。トウルヌソルは本土空襲を生き延びて昭和21年(1946年)の夏に25歳で死んだ。旧東京競馬場(東京都目黒区)跡地に、死後建立された記念碑が残っている。
※1 2006年12月現在、サンデーサイレンスも日本ダービーの優勝馬を6頭輩出している。
ワカタカ 牡 1929 栗毛 JPN 千葉県 下総御料牧場 乾鼎一氏所有
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【戦績】21戦12勝(12- - - ) 【主な勝鞍】日本ダービー、帝室御賞典、横浜特別
トウルヌソル* Tournesol 鹿 1922 GB |
ゲインズバラ Gainsborough 栗毛 1915 GB |
バヤルド Bayardo
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Bay Ronald |
Galicia |
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ローズドロップ Rosedrop |
St.Frusquin |
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Rosaline |
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ソリスト Soliste 黒鹿 1910 GB |
プリンスウィリアム Prince William |
Bill of Portland |
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La Vierge |
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シーズ Sees |
Chesterfield |
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La Goulue |
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サラ系 †種信 1918 JPN |
イボア* Ebor 黒鹿 1905 GB |
ハックラー |
Petrarch |
Hackness |
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ロードガフ Lord Gough |
Lady Gough |
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Clar Case |
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第二ミラ 1911 JPN |
第二スプーネー |
スプーネー* |
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第三ウォールダンスベリー |
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ミラ* Mirror |
不明 |
||
不明 |
F.No.[サラ系]
《競走成績》
【主な戦績】
年 |
月日 |
開催 |
競走名 |
距離 |
頭数 |
着順 |
勝タイム (着差) |
重量 |
騎手 |
2着馬(勝馬) |
準備中 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
【獲得賞金】73,698円
《繁殖成績》
昭和18(1943)年廃用
昭和20(1945)年3月10日斃死
《解説》
準備中
《産駒一覧》
産駒 |
血統名等 |
性 |
生年 |
毛色 |
母 |
生産地等 |
競走成績、勝鞍等 |
備考 |
-準備中 |
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Tournesol.html 2006 (財)零細系統保護協会
本ページは、私がウィキペディアに寄稿したものに加筆したものです。