HOME

スプーネー* Spooney 牡 1880 鹿毛 IRE

《血統表》

フォーローンホープ

Forlorn Hope

シタデル

Citadel

栗 1859 GB

ストックウェル

Stockwell

The Baron

Pocahontas

ソーティー

Sortie

Melbourne

Escalade

アイデア

I Dare

 

アンクルネッド

Uncle Ned

Weatherbit

Aunt Phillis

コリンウッドメア

Collingwood Mare

Collingwood

不詳

スウィートハート

Sweetheart

鹿 1873 IRE

 

ドニーブルック

Donnybrook

鹿 1860 IR

スプリッグオブシュリリー

Sprig of Shillelegh

Simoom

Thorn

フライ

Fly

Iago

Maria

アンビギティ

Ambiguity

鹿 1889 IRE

デルイター

De Ruyter

Lanercost

Barbelle

ザスピンクス

The Sphynx

The Ugly Buck

Medea

F.No8-b

《競走成績》

-

 

《代表産駒》

産駒

血統名

(繁殖名/種牡馬名)

生年

主な勝鞍

スイテン

 

1924

帝室御賞典

 

第二スプーネー

1890

活躍種牡馬(別項)

 

第六スプーネー

-

-

 

第二横浜

1896

-

-

-

-

-

-

-

-

-

-

-

-以下準備中

 

 

-

-

 

《繁殖成績》

明治20年(1887)輸入

明治21年(1888)北海道・新冠御料牧場にて供用開始

明治37年(1904)千葉県・下総御料牧場にて供用

明治38年(190510月 下総御料牧場にて斃死

 

《解説》

界の馬産史に燦然と名を残す偉大なドイツ馬政長官にして国立グラディツ牧場長のレーンドルフ伯爵は、競馬競走における優勝劣敗の原則に基づいて厳格に選別された種牡馬・種牝馬による馬産によって競走馬の質の向上に大いに貢献した。そのレーンドルフ伯爵が英国より導入を検討していたのが本馬スプーネー*Spooneyである。

 

プーネー*Spooneyの父フォーローンホープForlorn Hopeは祖母のコリンウッドメアCollingwood Mareが血統不詳のいわゆる「サラ系」であるが、英国ジェネラル・スタッドブックにジャージー規則が導入されて血統不詳馬が排除されるのは1901年のことであり、スプーネー*Spooneyの時代にはまだ、この馬も立派な<Tラブレッドだったのである。

 

てその血統的な背景を探ると、父系直系こそ「種牡馬の帝王」ストックウェルStockwell系で当時の本流であるが、それ以外はウェザービットWeatherbitとコリンウッドCollingwoodを通じて、ドイツに輸出されたシートアンカーSheet Anchorのクロスを持ち、祖母の父デルイターDe Ruyterはアスコット金盃の勝馬レイナーコストLanercostの直系で、シートアンカーSheet AnchorもレイナーコストLanercostも今となっては珍奇なエクリプス系分枝ジョーアンドリュースJoe Andrewsの末裔である。珍奇といっても、本馬の時代にはまだジョーアンドリュースJoe Andrews系は健在で、オーストラリアではケルピーKelpieの子孫が大レースを勝っていたし、1859年の英国ダービー馬Beadsmanの子孫はドイツ、オーストリア、フランス、南米でクラシックレースの優勝馬を輩出している。

 

リンウッドCollingwoodBMSとしてドイツダービー勝馬Investmentを出しており、レーンドルフ伯爵が本馬に目をつけたのも、ドイツに縁のあるこのジョーアンドリュースJoe Andrews系の血脈によるところもあるのだろう。同時期に輸入された種牡馬ゼバイカウント*The ViscountもジョーアンドリュースJoe Andrews系の血を濃く受けている点は興味深い。なお父系祖父のシタデルCitadelは英1000ギニー勝馬リパルスRepulseの全兄。母系祖母のアンビギティAmbiguityの半妹ビースウィングBeeswingはチェスターCに勝ち、ハンガリーのクラシックウイナーのBaberを産んだ。

 

【ジョーアンドリュースJoe Andrews父系概略図】

ECLIPSE

Joe Andrews

||Dick Andrews

|||Tramp ドンカスターC

||||Lottery ドンカスターC

|||||Sheet Anchor

||||||Weatherbit

|||||||Beadsman 英ダービー

||||||||Saxon ベルモントS

||||||||Blue Gown 英ダービー

||||||||Pero Gomez 英セントレジャー

|||||||||Peregrine 英2000ギニー

||||||||The Palmer

|||||||||Pilgrimage(f) 英1000ギニー、英2000ギニー

|||||||||Jenny Howlet(f) 英オークス

|||||||||Rosicrucian

||||||||||Geheimniss(f) 英オークス

||||||||||Hauteur(f) 英1000ギニー

||||||||||Dalberg 独ダービー

||||||||||Ercildoune

|||||||||||Magus オーストリアダービー

|||||||||Zanoni

|||||||||||Amianto ナシオナル大賞典

||||||||||||Melgarejo 亜三冠

||||||||||Beauclerc

|||||||||||Tyrant ドンカスターC

||||||||||||Masque

|||||||||||||Vinicius 仏2000ギニー、バーデン大賞

|||||||||||||L’Inconnu ガネー賞

|||||||Kelpie

||||||||Fireworks AJCダービー、VRCダービー

|||||||||Robin Hood VRCダービー

|||||||||Lapidist VRCダービー

|||||||||Goldsbrough AJCセントレジャー

||||||||||Vrockleigh コーフィールドC

||||||||||Arsenal メルボルンC

|||||||||||Murmur コーフィールドC

||||||Collingwood

|||||||Potentate

||||||||Regno AJCダービー

|||||Chorister 英セントレジャー

|||||Tomate カドラン賞

|||||Tetotum

||||||Tontine 仏ダービー

||||Liverpool

|||||Idas 英2000ギニー

|||||Lanercost アスコット金盃

||||||Gustave 仏2000ギニー

||||||Colsterdale

|||||||Sledmere

||||||||Daniel O’Rourke NZダービー

|||||||Lecturer アスコット金盃

||||||Van Tromp 英セントレジャー

|||||||Ivan

||||||||Selim 愛ダービー

|||||||Van Galen

||||||||Tim Whiffler ドンカスターC

|||||||||Briseis(f) VRCダービー

|||||||||Nellie(f) AJCダービー

|||||||||Darriwell メルボルンC

||||St. Giles 英ダービー

||||Dangerous 英ダービー

||||Zinganee アスコット金盃

|||||Beggarman グッドウッドC

||||||Morok 仏ダービー

 

資源が豊かで冬期の積雪が少ない東蝦夷の日高は家畜の育産に適しており、江戸後期の寛政年間には早くも新冠に牧場が開設されていたが、明治に入り北海道開拓使が設置されると、黒田清隆とホーレンス・ケプロン、エドウィン・ダンらによって北海道開拓の柱として二億坪もの敷地を以って新冠牧場の拡充が図られ、明治5年にはじめて洋種馬(トロッター)を導入した。これが新冠御料牧場のルーツである。開拓初期にはオオカミに仔馬を食い尽くされたり、イナゴの襲来に悩まされたりと大変な辛苦を味わうが、明治10年代を通じてトロッター種牡馬が導入され、牧場の拡充期となった。この時期に導入された種馬としてトロッター種牡馬ブラッキホークが著名である。牧場は内国産馬にトロッターの血を入れて内国産馬の改良を図る方針で徐々にその成果が出ていたのだが、明治18年に大火に見舞われて67頭の馬を失い、開拓以来の幾多の苦心の成果が灰燼に帰してしまった。これを契機に翌明治19年に御料局主管の新冠御料地となり、失われた種馬の穴を埋めるためにトロッター牝馬を輸入するとともに、宮中侍従の藤波言忠子爵を種牡馬の購買のため英国に派遣した。

 

波子爵はもともと政治家志望で、伊藤博文の紹介でウィーンのスタイン博士の下で憲法学を修め、明治天皇に講義をしたこともあったが、明治21年に主馬頭となり宮中の馬事を任されると御料牧場の発展に尽力し、帝室牧場の繁栄に大いに貢献した。その藤波子爵が英国で購入したのがゼバイカウント*The Viscountと本馬スプーネー*Spooneyである。スプーネー*Spooneyには既にドイツ馬政長官レーンドルフ伯爵から購入の申し出があったのだが、スプーネー*Spooneyを気に入った藤波子爵はレーンドルフ伯爵の商談が始まる前に600ポンドで購買を決めてしまい、一歩遅れてスプーネー*Spooneyを逃したレーンドルフ伯爵はたいそう残念がり、後年、岸本雄二獣医学博士が種牡馬購買のため訪欧しレーンドルフ伯爵に会見した折に、「スプーネー*Spooneyの仔の成績はどうか」と尋ねられたという。

 

プーネー*Spooneyは北海道で供用された最初期のサラブレッド種牡馬で、北海道の軽種馬の改良に大いに貢献した。当時はまだサラブレッド種の牝馬は極めて少なく、在来種をはじめさまざまな品種の軽種馬と交配された。実際、スプーネー*Spooneyの仔で「純粋な」サラブレッドと言えるものは稀である。特に北海道ではサラブレッド生産に先んじてトロッター生産が盛んであったため、トロッターの血を持つ洋種と配合され、血統の不肖な割合が多いものは洋雑種とよばれ、血統の詳らかなものは後にサラ系と称された。後に血統登録制度が整備され、サラブレッドの定義が厳密になると、スプーネー*Spooney自身も「サラ系」となってしまったが、スプーネー*Spooneyが供用されていた時代にあっては、スプーネー*Spooneyは真っ当なサラブレッドであると認識されていた点はきょウ徴しておかねばなるまい。

 

海道で活躍馬を出し、産駒の中でも最も由緒正しい血統を持っていた第二スプーネーも種牡馬として大成功を収め、晩年は下総御料牧場に「栄転」したが、翌年に死亡した。明治40年代以降に我が国の馬産が本格的になった頃には、スプーネー*Spooneyより一歳年下のセイントシモンSt.Simonが英国の血統を完全に塗り替えてしまい、ジョーアンドリュースJoe Andrewsの系統は殆ど絶滅し、日本にもセイントシモンSt.Simon系の種牡馬が次々と輸入された。スプーネー*Spooneyの血を継ぐ種牡馬・種牝馬もやがて淘汰されてしまい、明治が終わるころには、スプーネー*Spooneyは完全に過去の時代の血統となった。

 

スイテン  牡 1902 芦毛 JPN 北海道静内 新冠御料牧場産 安田伊左衛門氏所有

【戦績】5330勝 【主な勝鞍】帝室御賞典

スプーネー*

Spooney

鹿 1880 IRE

フォーローンホープ

Forlorn Hope

 

シタデル

Citadel

Stockwell

Sortie

アイデア

I Dare

Uncle Ned

Collingwood Mare

スウィートハート

Sweetheart

鹿 1873 IRE

ドニーブルック

Donnybrook

Sprig of Shillelegh

Fly

アンビギティ

Ambiguity

De Ruyter

The Sphynx

 

中半 第四エリース

芦 1896 JPN

 

 

アア 第四ブラドレー

芦 1882 JPN

ブラドレー*

Bradley

Norfolk

Margretta

高砂*

不詳

不詳

エリース*

トロ  Elise

鹿 1883 USA

エコー

スタ Echo

スタ Hambletonian

トロ Fanny Felter

ハーフムーン

トロ Half Moon

不詳

不詳

F.No.[ ]

 

《競走成績》

【主な戦績】5330

月日

開催

競走名

距離

頭数

着順

勝タイム

重量

騎手

2着馬(勝馬)

明治40

05/10

横浜

第二各内国産馬

1M

-

1

2.05.2

135

伊庭野次カ

イダテン

 

05/25

池上

内国産呼馬

1M

-

2

 

138

佐竹武士

ハナゾノ

 

05/26

池上

内国産呼馬

1 1/8M

-

1

2.20.8

138

佐竹武士

タカタマ

 

06/02

池上

内国産馬優勝

1 1/4M

-

2

 

138

佐竹武士

ハナゾノ

 

06/07

池上

内国産呼馬

1 1/8M

-

2

 

138

伊庭野次カ

タカタマ

 

06/08

池上

内国産呼馬

1 1/2M

-

3

 

138

伊庭野次カ

ハナゾノ

 

10/26

横浜

内国産呼馬第二

1M

-

2

 

140

佐竹武士

イダテン

 

11/02

横浜

内国産呼馬第三

1 1/4M

-

1

2.27

135

佐竹武士

ハコダテ

 

11/09

池上

内国産呼馬

1M

-

3

 

137

佐竹武士

ハナゾノ

 

11/16

池上

内国産呼馬

1 1/8M

-

2

 

137

佐竹武士

タマノヲ

明治41

04/13

目黒

内国産呼馬第四

1 1/2M

-

1

3.18.1

138

佐竹武士

ハナゾノ

 

04/19

目黒

内国産馬優勝H

1 1/4M

-

1

2.25

146

佐竹武士

ハナゾノ

 

04/26

川崎

ジヤパンダービー

1 1/2M

-

1

3.01.1/3

152

佐竹武士

フジヒラ

 

05/03

川崎

各内国産勝馬H

1 1/4M

-

1

2.33

160

佐竹武士

ワカナ

 

05/24

池上

帝室御賞典

3/4M

-

1

1.52.7

149

佐竹武士

ハツライ

 

05/30

池上

内国産呼馬

1 1/2M

-

2

 

159

佐竹武士

ハナゾノ

 

09/23

鳴尾東浜

内国産呼馬第二

1 1/2M

-

2

 

148

佐竹武士

フクハナ

 

09/26

鳴尾東浜

内国産馬スプリツトH

1 1/8M

-

1

2.19.3

155

佐竹武士

クワンサイ

 

09/27

鳴尾東浜

内国産馬優勝H

1 1/4M

-

1

2.29.7

157

佐竹武士

フクハナ

 

12/10

鳴尾西浜

各内国産馬

1 1/8M

-

2

 

155

佐竹武士

クワンサイ

 

12/11

鳴尾西浜

各内国産馬

1 1/2M

-

1

3.02.8

155

佐竹武士

イツプウ

 

12/13

鳴尾西浜

各内国産馬スプリツトH

1 1/8M

-

2

 

160

佐竹武士

クワンサイ

 

12/19

池上

各内国産馬

1 1/2M

-

2

 

151

佐竹武士

シノリ

 

12/20

池上

各内国産馬撫恤H

1M

-

1

2.00.7

160

佐竹武士

第二ゴシヨグルマ

明治42

09/05

ウラジオストック

各日本産馬及びシベリア産馬混合

 

-

1

 

 

二本柳省三

 

 

09/08

ウラジオストック

各日本産馬及びシベリア産馬混合

 

-

1

 

 

二本柳省三

 

 

09/12

ウラジオストック

各日本産馬及びシベリア産馬混合

 

-

1

 

 

二本柳省三

 

 

09/15

ウラジオストック

各日本産馬及びシベリア産馬混合

 

-

1

 

 

二本柳省三

 

 

09/19

ウラジオストック

各日本産馬及びシベリア産馬混合優勝H

1 1/4M

-

1

2.18

160

二本柳省三

クレテ

 

12/20

池上

各内国産馬

1 1/8M

-

1

2.06

153

二本柳省三

ハナゾノ

 

12/21

池上

各内国産馬

1 1/2M

-

1

R2.49.9

155

二本柳省三

ハナゾノ

 

12/22

池上

各内国産馬優勝

1 1/4M

-

1

2.19.5

160

二本柳省三

ウラカワ

明治43

07/23

東京

内国産呼馬

1 1/8M

-

2

 

148

北ク五カ

ウラカワ

 

07/24

東京

内国産呼馬

1 1/2M

-

1

2.53.9

148

北ク五カ

ハナゾノ

 

07/30

東京

内国産呼馬H

1 1/4M

-

1

2.19.2

150

北ク五カ

ウラカワ

 

07/31

東京

内国産馬優勝H

1 1/4M

-

1

2.17.5

150

北ク五カ

ウラカワ

 

11/12

東京

内国産呼馬

1 1/4M

-

2

 

160

二本柳省三

ウラカワ

 

11/13

東京

内国産呼馬

1 1/2M

-

1

2.54.3

160

二本柳省三

ハナゾノ

 

11/19

東京

内国産呼馬H

1 1/4M

-

3

 

160

二本柳省三

ジンソウ

 

11/20

東京

内国産馬優勝

1 1/2M

-

1

R2.51.9

160

二本柳省三

ウラカワ

明治44

04/21

阪~

内国産呼馬

1 1/8M

-

1

2.07.9

160

二本柳省三

カチヅル(同著)

 

04/23

阪~

内国産馬優勝

1 1/2M

-

1

2.51.7

160

二本柳省三

カチヅル

 

05/20

東京

内国産呼馬

1 1/4M

-

1

2.19.2

158

佐竹武士

ウラカワ

 

05/21

東京

内国産呼馬

1 1/2M

-

2

 

160

佐竹武士

第二ハアリー

 

05/28

東京

内国産馬優勝

1 1/2M

-

2

 

160

佐竹武士

第二ハアリー

 

11/05

東京

内国産呼馬

1 1/2M

-

1

2.49.6

156

坪内元三カ

第二ハアリー

 

11/11

東京

内国産呼馬H

1 1/4M

-

2

 

160

坪内元三カ

第二ハアリー

 

11/12

東京

内国産馬優勝

1 1/2M

-

3

 

156

坪内元三カ

第二ハアリー

 

11/24

阪~

内国産呼馬

1 1/8M

-

2

 

160

坪内元三カ

第二ハアリー

 

11/25

阪~

内国産呼馬

1 1/4M

-

1

2.21.7

160

坪内元三カ

バロー

明治45

04/13

東京

内国産呼馬

1 1/8M

-

3

 

152

坪内元三カ

ホンキリ

 

04/14

東京

内国産呼馬

1 1/2M

-

2

 

152

佐竹武士

ラングトン

 

04/20

東京

内国産呼馬H

1 1/4M

-

3

 

151

坪内元三カ

ホンキリ

【獲得賞金】円

《繁殖成績》

-

《解説》

田記念に名を残す安田伊左衛門がはじめて自分の馬を所有したのは明治39年の初雪号である。当時の競馬会は会員である馬主の集まりとして成り立っており、東京競馬会理事である安田も自ら競走馬を所有し走らせていて、馬主と主催者の間に一線が引かれている現在の競馬会とは異なっていた。当時はトロッター種牡馬の豊平を父とする花園(ハナゾノ)という名馬が活躍しており、安田はお抱え騎手の佐竹武士に、おまえ北海道に行って花園よりいい馬を見つけてこいと言って北海道に遣わした。佐竹は十勝に御料払い下げのいい馬がいると聞いて、それを目当てに渡道するが、札幌で酒を飲みすぎて入院してしまった。病院をこっそりと抜け出して十勝へ向かった佐竹は、1頭の芦毛馬に出会う。

 

竹は、北海道に見込みのある馬が1頭いるのであれを買わぬか、産地は新冠御料牧場で血統は英純血サラブレッド、ただ欠点とするところは芦毛であることと、体が少し細い為に払い下げられて、同地の藤森某氏が所有し種用に供している、と安田に伝えた。ご存知のとおり、当時の馬産は日清・日露戦争で露呈した日本産馬の貧弱さを改良するため、軍馬育成の大義名分があったため、夜戦において目立つと言う理由で芦毛馬は敬遠されていた。安田は、芦毛であろうがなんであろうが、産地血統に申し分なく、ことに種用に供するほどのものであれば逸駿に相違がない、よろしい買いましょうといって先方の言い値の2000円に500円上乗せして2500円ですぐに購入した。当時としては珍しい高値だった。

 

40221日の夜、佐竹が率いて芦毛馬が大森停車場に着いたのをチラリと見て、安田は「佐竹オマエ馬が見えるのか」と狂喜したという。池上の厩舎に入りあらためてみると、年齢6歳であるが骨格、体格すべて安田の理想に適い、彼の満足はコレを喩えるにものがなかった。彼は紹介者である佐竹に、「君はよくこの馬を見つけてくれた、私はたとえこの馬が競馬に飛ばなくても満足だ」と言った。

 

かし周囲は、安田が馬も見ずして2500円もの大金をポンと投じたため、安田は北海道からミズテンを買ったと言って笑罵を浴びせた。あんな馬車馬のような馬に大金を投ずるとはちとおかしい、実に乱暴であると。これを聞いた安田は愛馬に「ミズテン」とつけ、嘲り笑ったものを見返してやろうと、人知れない苦心惨憺をして、飼い方に研究を重ねた。一部にはこの馬の能力を見抜いていたものもおり、あるときには倍の5000円で譲ってくれないかと声がかかったこともあったが、安田はそっけなく断った。5月になり、横浜で初出走したミズテンは、イダテンを破って見事緒戦で勝利を収めた。馬券は9倍の配当だったが、イダテンの馬主が同じ安田であったため、当時の規則にしたがって半額の45円の配当となった。

 

 

水天と佐竹騎手

 

事魔多し、ミズテンはこのレースで脚を痛めてしまい、その後は好走はするものの勝ちきれないレースが続く。最初ミズテンは、体の上部が重く、肢のほうが負けていた。それで体の均衡を保たせるために、体重と脂肪を減らす必要があると考え、当時の常識に従って、干草や藁の量を減らして減食をさせ、さらには下剤を用いて減量をさせつつ調教を行った。するとミズテンの体はだんだんと衰え、しまいには腱部に狂いを生じてしまった。理由がわからない安田は獣医らに観察治療を請い、削蹄がわるいのか、体がわるいのかと手を替え品を替えてみたけれども効果を発しなかった。

 

るとき、佐竹がミズテンの様子を見ていると、ミズテンは寝藁を食べないようにと口籠をかけられた口で、いろいろと苦心惨憺、工夫しながら寝藁を一本一本口に運んでは食べ、一晩中寝ないでそれを繰り返しているではないか。せっかく減量しているのに休みもとらずに寝藁を食べられてはいけないと、彼らは寝藁をやめておが屑を入れてみた。しかし今度は、おが屑は食べないが、寝にくいのか、やはりどうしてもよく寝ない。次に安田は、水藻を乾燥させて寝藁にしようと考え、郷里の池から大量の水藻をとってきた。水藻ならば馬は食わないからである。

 

ころが当時一世を風靡していた名馬メルボルン二世は、じゅうぶんに食いじゅうぶんに寝て、あの成績を上げていると知った安田は、ミズテンは減量のため腹がひもじいのでよく寝ないのかもしれないと思い、干草も燕麦もじゅうぶんにあたえて寝藁も入れ、さらに運動もじゅうぶんにさせてみたところ、果たして予想的中し、めきめきと健康体に復し、腱部の患痛も去り、暫時にして元気旺盛となり、安田らの期待を集めるところとなった。

 

年の四月はいよいよ東京における晴れの初陣として勇躍出場した。安田も彼の武者ぶりに信頼せぬでもないが、なんとしても最初のことであり、ことにいまだ場馴れもせぬことであるから、勝負如何にと手に汗を握り、瞬きもせず見つめていると、韋駄天のごとくに駆けたミズテンは強敵花園を遂に抜いて優勝した。彼はこのとき思わずあっと叫んで愛馬の傍らに駆け寄り、その首を抱くこと躊躇しえなかった。こうして全盛期を迎えたミズテンは、明治41年池上の一マイル競走では1分51秒のレコード、42年にも池上の一マイル半で2.49.95、43年東京で2.51.98のレコードを樹立した。名馬花園を負かしたということでミズテンが有名になると、加納子爵や酒匂博士が、「ミズテン」では感心しないので「水天」にしてはどうか、と忠告し、安田は「水天彷彿」の水天ならよかろうということで名を「水天(スイテン)」にあらためた。

 

つづく

 

 

 

 

Spooney.html 2004 (財)零細系統保護協会