スプレンドール* Splendour 牡 1906 鹿毛 GB
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《血統表》
シェーン Sheen 鹿 1885 GB |
ハンプトン Hampton 鹿 1872 GB |
ロードクリフデン゙ Lord Clifden |
Newminster |
The Slave |
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レイディラングデン Lady Langden |
Kettledrum |
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Haricot |
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レイデディアンシー Radiancy 1876 GB |
ティブスロープ Tibthorpe |
Voltigeur |
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Little Agnes |
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メテオ Meteor |
Thunderbolt |
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Duty |
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エスク Esk 1892 GB |
エスターリング Esterling 栗 1882 GB |
スターリング Sterling |
Oxford |
Whisper |
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アポロジイ Apology |
Adventurer |
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Mandragora |
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グレア Glare 鹿 1891 GB |
ピーター Peter |
Hermit |
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Lady Masham |
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レヴェイロン Reveillon |
Cambuscan |
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Media Noce |
F.No[5-e]
《競走成績》
《代表産駒》
産駒 |
血統名 (繁殖名/種牡馬名) |
生年 |
性 |
主な勝鞍 |
レンド |
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1920 |
牡 |
帝室御賞典、各内国抽籤濠州産馬混合競走(目黒記念) |
ヱスク |
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1922 |
牡 |
各内国産馬連合競走 |
ダイリ |
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1924 |
牡 |
帝室御賞典 |
ナノハナ |
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1924 |
牝 |
各内国産牝馬連合競走 |
アリアケ |
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1924 |
牝 |
各内国産牝馬連合競走 |
スプレンピット |
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1930 |
牡 |
九州産小倉特別競走 |
-以下準備中 |
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- |
- |
《繁殖成績》
大正3年(1914)輸入
大正4年(1915)供用開始
昭和7年(1932)抹消
《解説》
準備中。
レンド 牡 1920 鹿毛 JPN 鹿児島県 奥村直市氏所有(山尾徳三名義)
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【戦績】19勝 【主な勝鞍】帝室御賞典、各内国抽籤濠州産馬混合競走(目黒記念)
スプレンドール* Splendour 鹿 1906 GB |
シェーン Sheen 鹿 1885 GB |
ハンプトン Hampton |
Lord Clifden |
Lady Langden |
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レイデディアンシー Radiancy |
Tibthorpe |
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Meteor |
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エスク Esk 1892 GB |
エスターリング Esterling |
Sterling |
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Apology |
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グレア Glare |
Peter |
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Reveillon |
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フヨー |
フリーボーン Freeborn 鹿 1904 GB |
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半血 初洋 |
アア 第十三ガズラン |
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半血 老虎尾 |
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F.No.[ntb]
《競走成績》
【主な戦績】
年 |
月日 |
開催 |
競走名 |
距離 |
頭数 |
着順 |
勝タイム (着差) |
重量 |
騎手 |
2着馬(勝馬) |
準備中 |
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- |
- |
- |
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- |
- |
- |
- |
【獲得賞金】-円
《繁殖成績》
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《解説》
鹿児島産のレンドは、オーナー奥村直市氏の息子、奥村鹿一を鞍上に大正12年春の小倉で新呼馬優勝戦を勝ち、秋には遠路阪神へ遠征して古呼馬優勝戦に勝った。九州産馬がこの程度の大競走に勝つのは異例なことで、レースに勝って引き上げてきたレンドと奥村鹿一に、父直市氏は駆け寄って抱き合って喜んだという。もともと九州は日本を代表する一大馬産地で、北海道が全体で毎年100頭前後、岩手で80頭程度の生産頭数だったが、鹿児島では100頭、熊本では170頭規模の馬産が行われ、ほかにも宮崎県などで競走馬の生産が行われ、福岡や佐賀では競走馬の育成が盛んに行われていた。人的資源も豊富で、古くは日本人馬主として初勝利を挙げた西郷従道を筆頭に、東京競馬の創始者である偉大な加納久宜子爵は鹿児島県知事時代に九州の産馬育成に尽力し、下総御料牧場の前身である取香種畜場を創設した岩山敬義、日本競馬会理事園田実徳も鹿児島出身である。それでも東京や阪神の競馬はほとんど東北と千葉産の競走馬に占められて、それに続くのが北海道産馬という有様であった。
大正12年は宿願の競馬法が施行された年で、秋競馬から関係者待望の馬券の発売が復活することとなっていた。奥村父子とレンドには野望があった。馬券発売なった折、東京は目黒の一大レース、連合二哩への東上であった。明治44年創設の連合二哩は日本で最大のレースで、一生に一度しか出生のチャンスのない、現在のダービーと天皇賞を合わせたような至高のレースである。この大競走を九州の馬で勝つことは、奥村父子のみならず九州馬産界の夢であった。
9月、関東を襲ったマグニチュード7.9の大地震により、関東一円には戒厳令が敷かれた。せっかく馬券が再開された競馬会であったが、さすがにこの事態で予定通り開催というわけにはいかなくなった。しかし競馬は国策であり、開催は国是であるとのことで12月中旬に至り漸く東京競馬が開催されることとなった。この東京競馬に遠征したレンドにとって最大の敵は濠州産馬宝永の仔ピューアゴウルドで、既に春に御賞典を拝領した強豪である。奥村氏にとっては残念なことに、息子の鹿一氏には東京競馬の騎手免許が下付されず、止むを得ず鳴尾所属の新堂騎手が騎乗した。大いに期待を集めたレンドであったが、レースではピューアゴウルドが強く、レンドよりも1ポンド重い斤量を背負ってレンドを7馬身突き放して圧勝した。2着に敗れたレンドであったが、3着はさらに大差で離れていた。
翌年、地元の小倉に待望の帝室御賞典が創設された(前年から御賞盃が下賜されていたが、正式に年一回の競走として定着するのは大正13年から)。レンドはここで150ポンドを背負って帝室御賞典を勝ち、名実ともに一流馬の称号を得た。しかし、御賞典を拝領した馬はもう帝室御賞典には出走権利が無いし、連合二哩も出走してしまったレンドにとって、目標とするべき大レースは無く、各地の特ハンや優勝戦を転戦することとなる。
大正14年秋、京都競馬倶楽部は淀に新競馬場をつくり、装いも新たに開設された。大盛況の開催最終日の12月13日第十競走、淀競馬最大の呼物競走である各内国産馬優勝競走が9頭によって争われた。距離は1哩1/2(約2400m)。下総御料牧場の名門牝系出身のマツカゼが1,395票で本命(約3.5倍)、小倉から遠征してきたレンドはマツカゼより12ポンド重い斤量を背負い881票で対抗(約5.6倍)であった。あとはレンドより27ポンド軽い斤量のアサハルが離れた3番人気で134票だった。奥村鹿一騎手騎乗のレンドは2.49.28のタイムで一位となり、殿り待機のマツカゼは直線だけで猛烈に追い込んだが2馬身差の2位に敗れた。ところがここでマツカゼの馬主奥野寅造氏より、レンドが直線で外にヨレてマツカゼの進路を妨害したとの異議申立てがあり、協議の結果レンドは失格となり、マツカゼが繰り上がり優勝となった。
収まらないのはレンドに賭けていた者たちで、1500余名のレンド支持者が競馬倶楽部事務所に詰め寄せ、ガラス窓を破り器具を破壊して大変な騒擾となった。倶楽部側はホースによる放水を行って応戦し、警察隊が多数乗り込んでくるほどの事態に発展したが群集は退散せず、椅子や器具を壊し火を焚いて気勢を上げ、騒ぎは翌朝まで夜通し続いた。これにはいくつもの伏線があり、レンドは以前も同様な斜行を行ったことがあったが今まではお咎めなしで、一方のマツカゼもこの年の春、小倉の帝室御賞典で相手の馬が転倒落馬するほどの斜行をしたにもかかわらず、そのまま一着と認められていた。加えて、馬券復活によって観衆のレースに対する意気込みは非常に強く、この年は各地でこうした騒動が多発し、東京で勝馬の番号を誤って発表して大騒動になったのをはじめ、札幌や小倉でも群集と主催者側が衝突する事態になり、観衆は競馬倶楽部の審判制度におおいに不満を募らせていた。こうした騒ぎはやがて写真判定の導入や審判制度の改革の原動力となる。
レンドは7歳(旧馬齢)になった大正15年も現役を続行した。前年秋に東京に創設された新しい大競走、第二回濠抽混合(現在の目黒記念)が目標である。前年の連合二哩の覇者カノウを筆頭に、御賞典馬ラレードら強豪が揃った。3年前に涙を飲んだ目黒の檜舞台で雪辱を期したレンドは、この2哩1分(約3400m)のレースで、前年ラシカッターがバンザイを下したタイムを9秒ほども上回る3.48.41のレコードで駆け、カノウに5馬身差をつけて優勝、古馬の頂点に立ち、九州産馬として空前にして絶後の偉業を達成した。
Splendour.html 2004 (財)零細系統保護協会